ナッジ理論は人々の行動を望ましい方向に誘導する手法として、行動経済学の分野で注目を集めています。
人を望ましい行動へ導くために医療・健康分野などで多く活用されています。また現在はマーケティングにも応用されており、身近なところで活用されているのを見ることができます。
社会的課題解決や公共政策へも応用されているナッジ理論について、今回は詳しく解説し、具体例も挙げながら自社でも応用できる方法を考えていきましょう。
ナッジ理論とは
ナッジ理論とは、人々の行動を優しく後押しする方法のことです。
「ナッジ」(Nudge)とは、英語で「そっと肘でつく」という意味を持ち、強制せずに、ちょっとした工夫で人々の行動を望ましい方向に導く考え方になります。
この理論は2008年にシカゴ大学のリチャード・セイラー教授とハーバード大学のキャス・サンスティーン教授によって提唱されました。
セイラー教授はこの理論の発展と応用に対する貢献により、2017年にノーベル経済学賞を受賞しました。これによりナッジ理論の重要性と影響力が世界的に認知されることとなりました。
ナッジ理論の基本
ナッジ理論はこれまでの経済学が想定していた「人は合理的な判断をする」というモデルとは異なります。
実際の人間の意思決定には、思い込みや先入観によって非合理的な判断をしてしまう「認知バイアス」や、心理的要因が影響を与えることが前提としてあります。
認知バイアス
自身の思い込みや先入観によって、非合理的な判断をしてしまう心理現象のことです。
その原因は主に、個人の生活習慣や過去の経験から得た固定観念などです。 この認知バイアスはマーケティングにも活用されています。
ナッジ理論は人の選択の自由を尊重しつつ、望ましい行動を取りやすくするよう環境を設計することにあります。
例えばレジの前にある整列用の足跡マークもこのナッジ理論に基づいています。感染症拡大の際にお客様に間隔をとってもらうために、こうした方法が取られました。他にも健康的な食品を目立つ位置に配置したりすることも、ナッジの具体例として挙げられます。
医療・健康の分野でもナッジ理論は広く活用されており、日本の健康寿命を伸ばすべく厚生労働省は、ナッジ理論を活用した受診率向上の施策に取り組んだりもしています。
ナッジ理論のフレームワーク
ナッジ理論には活用しやく、さまざまな場面で効果的とされている「EAST」と呼ばれるフレームワークが存在します。「EAST」は、人々の行動を望ましい方向に導くための効果的な手段あですので、詳しく解説していきます。
EASTの4つの要素
EASTはEasy(簡単)、Attractive(魅力的)、Social(社会性)、Timely(タイムリー)の頭文字を取ったもので、イギリスの政府組織「The Behavioural Insights Team(BIT)」が開発しました。
- Easy(簡単)
- Attractive(魅力的)
- Social(社会性)
- Timely(タイムリー)
Easy(簡単)
人は本質的に、簡単で手間のかからない選択肢を好む傾向があります。そのため望ましい行動を促すには、その行動をできるだけ簡単にすることが重要です。
例えば自動車保険の更新を簡単にするために自動更新システムを導入することで、保険の継続率を向上させることができます。
Attractive(魅力的)
注目を集め、行動を促すためには、提案や選択肢を魅力的に見せることが大切です。視覚的な要素や報酬を活用することで、人々の関心を引き付けることができます。
人は損失を回避したい気持ちが強く作用する(プロスペクト理論)と言われています。これを応用して、ショッピングウェブサイトで商品の隣に「限定セール」と表示する方法などもあります。
Social(社会性)
人は他人の行動に影響を受けやすい社会的な存在です。多くの人が行っている行動や、尊敬する人の行動を模倣する傾向があります。この社会性を活用することで、望ましい行動を促進できます。
イギリス政府は税金滞納者に「あなたの住む地域の10人中9人は期限内に納税しています」といったメッセージを送ることで、納税率を68%から83%に向上させています。
Timely(タイムリー)
適切なタイミングで介入することは、行動変容を促す上で非常に重要となります。人々が最も受け入れやすい、または行動を起こしやすいタイミングを見極めることが大切です。
例えばボーナス時期にセール情報を流すと言ったこともこれにあたります。
EASTのフレームワークを活用することで、強制や命令ではなく、自然な形で人々の行動を望ましい方向に導くことができます。このアプローチは会社の生産性向上、従業員の健康促進、環境保護活動の推進など、様々な場面で応用可能となります。
重要なのはEASTの各要素をバランスよく組み合わせ、状況に合わせてカスタマイズすることです。それぞれの特性を理解して応用するようにしましょう。
マーケティングにおけるナッジ理論の応用
ナッジ理論はマーケティング戦略にも革新的なアプローチをもたらしています。
消費者の行動を深く理解し、それに基づいて効果的な介入を行うことで、ビジネス目標の達成と社会的価値の創出を両立させることが可能になります。
消費者行動への影響
マーケティングにおいて、ナッジ理論は消費者の意思決定プロセスに影響を与えるために活用されます。
デフォルト設定
顧客にとって最適な提案をデフォルトオプションとして設定することで、その提案を選んでもらう確率を高めることができます。こうすることで顧客の意思決定を支援し、望ましい選択を促すことができます。
例えば、オンラインショッピングサイトで「置き配」をデフォルトに設定することで、不在時の配送業務の手間を省くことができます。
また新規会員登録時に、メールマガジンの配信を「希望する」をデフォルトにすることもこれに当たります。メルマガ登録者数が大幅に増加するだけでなく、ユーザーが明示的に解除しない限り配信が続くため、コンテンツの価値を理解してもらう機会が増えます。
フレーミング効果の活用
フレーミングとは同じ情報であっても、その伝え方や表現方法によって、人の意思決定も異なってくるという現象のことです。同じ情報でも、提示の仕方によって消費者の反応が変わることをマーケティングでは利用します。
例えば、「5%の脂肪分」よりも「95%脂肪フリー」という表現の方が、健康志向の消費者に訴求力があります。
社会的証明の利用:「人気商品」や「多くの人が選んでいる」といった表現を用いることで、消費者の購買意欲を高めます。
商品カゴのサイズ
コンビニではカゴをもつ顧客の方が滞在時間が長くなり、客単価が高くなる報告もあります。
この事実をさらに応用して、スーパーマーケットの買い物カゴのサイズを微妙に大きくすることで、顧客の購入量を自然に増やす戦略もあります。カゴいっぱいに商品を入れたいという人の心理を利用し、売上増加を図っているのです。
製品デザインとパッケージング
顧客の視覚に訴えかける方法もあります。例えばパッケージデザインや商品の色使いを工夫することで、消費者の注目を集め、購買を促進する方法です。書籍のカバーでも黄色やピンクなど目立つ色を使うことで、数多くある本の中で注目してもらうことができます。
またスーパーの店舗やウェブサイト上で、注目させたい商品を目立つ位置に配置することも購買に繋げる手段となります。
価格戦略
高価格の商品を先に提示することで、その後の中価格帯の商品が相対的に安く感じられる「アンカリング効果」を利用して購買意欲を高める手段があります。
スーパーマーケットの価格表示や、チラシなどでもこの手法を利用しており、スマホ料金の新・旧プランの比較でも利用されています。
マーケティングでよく利用されるフレームワークはこちらで解説しています。
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ナッジ理論の倫理的考察
ナッジ理論は上手く使えば効果的に働きますが、倫理的な配慮も不可欠です。消費者の自由な選択を尊重しつつ、透明性を保ちながら適切に活用することを忘れないようにしなければなりません。
気をつけるべき2つのポイント
個人の選択の自由を守る
- 強制しない
- 最終的な決定権は個人にある
- 選択を制限しない
社会的利益を考える
- 個人と社会の利益を両立させる
- 悪用しない
- 弱者を利用しない
ナッジ理論は人々を強制せず、自発的に良い選択をするよう促す方法です。常に相手の立場に立ち、透明性と誠実さを持って活用することが最も重要です。
まとめ
ナッジ理論は、人の行動を強制せずに望ましい方向へ導く手法です。この理論は人間の非合理的な判断を前提とし、EASTフレームワーク(Easy, Attractive, Social, Timely)を活用して効果的に行動変容を促します。
マーケティングや公共政策など様々な分野で応用されていますが、倫理的配慮も重要です。個人の選択の自由を尊重しつつ、社会的利益を考慮しながら適切に活用することが求められることを理解して使用していきましょう。
参考文献
- 竹林 正樹ら:なぜナッジで行動を後押しできるのか? —経済学から見たナッジ—
- 厚生労働省:明日から使える ナッジ理論受診率向上施策ハンドブック
- Thaler, R. H., & Sunstein, C. R. (2008). Nudge: Improving decisions about health, wealth, and happiness. Yale University Press.
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